池田大作・創価学会『名誉会長』
元・担当看護師が語る「厳戒病室」での病状
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
●懐メロ創作歌詞176用●
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『池田大作「創価学会」名誉会長
・
担当していた元看護師が語る
・
「厳戒病室」
・
本当の病状』
iVBVBVBVBVBVBVi
iCute
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
・
※
・
魚拓元
『週刊文春』2011年10月27日号
・
この外部記事で、2011年の時点で
池田大作が缶詰めにされて
いる建物だと実名を挙げられて
いるのは「南元センター」。この
建物についての情報と画像も
載せておこうと思う。
▲
・
google
・
map
・
▲
Google Map
〒160-0012
・
東京都新宿区南元町5
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⇒●画像引用URL●⇒
南元センター
・
(資料)
iVBVBVBVBVBVBVi
-
・
実事求是
・
-
創価学会の詐術を読み解く
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・
・
⇒●文章引用元URL●⇒
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
なぜ、熱心な学会員でもあった
Aさんが
・
池田氏の病状を明らかに
することを決意したのか。
・
「私は池田先生をお慕いして
・
創価学会へ入りました。今も
・
その
・
尊敬の思いは変わっていません。
・
私が
・
先生の看護スタッフを
・
始めた頃は、まだ先生もお元気で、
神様≠セと思っていました。
・
しかし、先生のお世話をするうち
・
に、先生も寿命のある人間なんだ、
・
と痛感したのです。幹部の方々は、
・
心配する我々学会員に対して
『先生は元気です』とアピールする
・
ばかりです。しかし、それは
・
学会員を欺き、池田先生を
・
冒瀆(ぼうとく)しているのと
・
同じではないでしょうか。
・
末端の学会員にも先生の現状を
・
お知らせして、先生のために
・
大勤行会(だいごんぎょうかい)を
・
開(ひら)いたほうがいいと
・
思うのです。それが、今回、
・
私がお話しした理由です。」
・
話を池田氏の病室に戻そう。
Aさんは、衰弱してゆく池田氏の
看護をしながら
・
心を痛める日々が
続いた、と振り返る。
・
「以前は
・
病室の隣に大理石の
・
お風呂があって
・
よく入られていた
・
のですが、その浴室は使われなく
・
なりました。大理石の浴槽の
・
そばに車椅子ごと入れる介護用の
・
浴槽があって、そちらを利用する
・
ようになったのです。入浴は
・
四、五人がかりの作業でした。
・
回数も、私が勤務していた当時は
・
週二回ほどに
・
なっていました。
・
看護師がオムツを交換し、
・
婦長など地位の高い方が、
・
病衣を着た先生のお顔などを
・
拭いでいました。」
・
池田氏専用のフロアにいる看護師
は、日勤三名、夜勤二名の計五名。
24時間体制で勤務していたという。
その他にも警備員が警備室に三名、
エレベーター前に一名、病室の前に
一名配置されている。病室には
秘書とともに、監視カメラが
設置され、ナースステーションで
チェックできるようになっていた。
階段には防火扉が設置され、普段は
鍵が掛けられていた。そのため、
昇り降りできるのはエレベーター
のみ。そこで警備員が
出入りする人間を見張っていた。
・
「まず驚いたのは、最上階の
・
物々しい雰囲気です。警備員は
・
第1警備の方々でした。どの人も
・
体格が良くて、何か格闘技でも
・
やってらっしゃるような人だと
・
思います。目つきが鋭くて、
・
通常の業務をしている私たちも
・
常に監視下に置かれているような
・
感じでした。四階以下は
・
金城会の方が警備をしています。」
・
第1警備や金城会とは
どんな部署なのか。学会に
詳しい人物によれば、
「第1警備」は
・
池田名誉会長直属の
エリート警備部隊。また、
「金城会」は
・
全国各地域から
集められた一般の会員で
・
柔道や
合気道の有段者が多いことでも
有名です。こちらも池田会長の警護
が主な業務といわれていてます。
・
警護体制だけでなく、病室の
作りにも秘密が隠されていた、
とAさんは話す。
・
「先生の病室は縦が約七メートル、
・
横が約五メートルの広さです。
・
白っぽい壁は鉄製で、
『マシンガンで撃たれても
・
びくともしない』と
・
説明を受けました。
・
病室の窓ガラスも
・
防弾ガラスだと聞きました。」
・
まるで軍事施設のような
堅牢さだが、一歩病室へ入ると、
そこには瀟洒(しょうしゃ)な洋間が
広がっているという。
・
・
「先生の病室にはキングサイズの
・
ベッドがあり、シーツ、
・
掛布団カバー、枕は全て
・
金色のペーズリー柄でした。
・
ベッドの側には、小さな
・
テーブルと椅子が置いてあり、
┏━━━━━━━━━┓
┃
お元気なときには、
┃
┗━━━━━━━━━┛
・
そこで
・
よく
・
筆ペンを
・
手に取って
・
和歌を詠んで
・
いらっしゃいました。他に
・
来客用の応接セットもあります。
・
テーブル、ソファーと
・
椅子が二つ。また
・
病室には
・
絨毯が敷かれているのですが、
・
『バッキンガム宮殿に使われて
・
・
いる絨毯と同様のもの』と
・
言われました。一般の病室とは
・
全く違い、外国の洋館みたいな
・
お部屋なのです。」
・
備え付けの棚には、大きなテレビ、
先述した著作や写真などが並ぶ。
花瓶には様々な種類の生花が
飾られていた。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃
病室でも髪型はオールバック
┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
「香峯子(かねこ)夫人が
・
週に
・
何度か病室にいらっしゃって
・
花を取り換えていました。
・
エレベーターで五階へ上がるとき
・
は、警備員や看護師などのスタッフ
・
は整列してお迎えするのです。
・
夫人は長居することもなくて、
・
1時間くらいで
・
ご自宅に戻られる
・
ことが多かった。」
・
また、池田氏の病室では
重要なルールがあった。
・
「1番初めに注意されたことは
『病室の電気は切ってはいけない』
・
ということでした。
・
先生は
・
明かりが消えると
・
よく眠れないそうなんです。
・
昼夜逆転されることも少なくなく、
・
昼間に眠ってらっしゃることも
・
多かったですね。病室の天井は
・
折上(おりあげ)天井に
・
なっていて、蛍光灯が何十本も
・
取りつけられていました。」
・
実際、南元センターの周囲から
池田氏の病室とされる場所を
見上げると、記者が確認を
行なった夜には、いつも
ブラインドの隙間から
かすかに明かりが漏れていた。
・
厳重に警護された池田氏の病室。
そこに足を踏み入れるのは
香峯子(かねこ)夫人など
・
池田氏の
家族と
・
医療スタッフ、ごく限られた
学会の幹部だけだったという。
・
・
「池田先生の側近の方は
・
いらして
・
います。幹部の中でも
・
本当に
・
重職の方がいらしていました。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃
先生が話ができたときには、
┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
・
病室の隣にある会議室で
・
色々
・
話をされていたようです。
・
髪の毛やお顔は
・
来客があるので、
・
二日に一度くらい手入れして
・
いました。髪型も
・
皆さんが
・
ご存知のオールバックです。
・
先生は
・
いつも身ぎれいに
・
していらっしゃいました。
・
髭は電気カミソリなどで丁寧に
・
剃らせていただいています。
・
夫人からも
・
見た目には気を遣う
・
ように指示が出ていて、きちんと
・
させていただきました。」
・
先述したように、池田氏は
1年以上も
・
公の場に
姿を見せていないが、
・
・
「学会系の新聞や雑誌には、
・
池田先生のメッセージや対談
・
の様子が描かれていますね。
┏━━━━━━━━━━━┓
┃
先生は
・
そんなことが
・
・
┃
┃
出来るような
・
お体では
・
┃
┃
無いのに・・・・・・」
・
・
・
・
┃
・
┗━━━━━━━━━━━┛
・
確かに、学会の機関紙『聖教新聞』
によれば、地震発生後の3月21日、
池田名誉会長は東京・新宿区の
創価学会第二別館で勤行を行なった
と報じた。また、5月3日付の同紙
には夫人とのツーショット写真が
掲載されており、キャプションには
「4月19日、東京・新宿区で」
と記している。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃
南元センター
・
取材は
・
「拒否」
┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
学会系の総合誌「潮(うしお)」でも、
海外の要人たちとの対談を連載。
6月号からは、モスクワ大学総長、
ヴィクトル・A・サドーヴニチ氏との
対談が掲載された。この連載対談の
中では、東日本大震災などにも
触れられ、池田氏が、「本年五月、
ロシア国立交響楽団が来日公演し、
各地で大きな反響を呼びました」と
言及しているが、そんなことが
可能なのか。創価学会に尋ねると、
・
「(聖教新聞の夫人との写真は)
・
今年の4月19日に撮影されたもの。
・
また、連載対談は近年の往復書簡
・
をまとめたものです」
・
さらにAさんの
真摯な証言に対しては、
・
「ご指摘は全て事実無根です」
(創価学会広報室)
・
否定するのであれば、南元センター
の五階を見せてほしいと求めたが、
・
「部外者の方を入れたことは
・
ありません。もし
・
そこに
・
名誉会長がおられなければ、
・
どこかに移した、と
・
言われるだけでしょう」と
受け入れられなかった。
・
別の学会関係者も言下に否定する。
・
「南元センターは
・
一般の学会員も
・
利用する施設。五階に入ったこと
・
は
・
ありませんが、そこに
・
池田先生がおられるなら、
・
隠しておけるはずがありません。
・
今も池田先生は、秘書を通じて
・
さまざまな指示をなされています」
・
だが、先述したように、下の階で
働いていたAさんでさえ、
五階勤務に
・
なるまでは、そこに
池田氏がいるなどとは、想像だに
していなかったのだ。そもそも
家族や
・
ごく一握りの幹部を除き、
池田氏の所在や現状が、彼の
健在を祈る一般の学会員にさえ
隠し通されていること自体に
無理があるのではないか。
一刻も早い真実の開示が待たれる。
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⇒●文章引用元URL●⇒
82歳から じわじわ進行した脳梗塞により
「弁士の達人」の座から陥落した池田大作
・
・
脳が
・
じわじわと
・
・
病気に侵(おか)され、
・
・
「神がかりなスピーチ」が
・
・
出来なくなり、
・
・
創価学会本部から
・
・
ガラクタ認定され、
・
・
終(つい)には「演壇からの撤退」を
・
・
余儀なくされてしまった
・
・
池田大作「名誉会長」。
・
・
その当時の実録文献。
・
時は西暦2010年(平成22年)。
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⇒●文章引用元URL●⇒
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池田大作の同時中継、哀れな
提婆達多並みの呂律(ろれつ)
iVBVBVBVBVBVBVi
Kaettekita
・
私が思う
・
あの事この事
Return(Get
・
Back
・
Part2)
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
今から何年も前、創価学会員だった
私含め家族は、自家用車で毎月1回、
せっせと文化会館へ同時中継の為に
駆り出され
・
映像を見に行っていた。
・
その建物はいかにも新興宗教の
施設そのものだったが、当時は
何も疑問にも思わなかった。
・
男子部長、女子部婦人部部長
・
挨拶
・・・と続き、いよいよ池田大作氏が
お出ましになる(スクリーンの映像)。
・
センセーは、何とか笑いを取ろう
と必死のようで、同時中継の中の
大勢の人も、そこの会館の人も、
ぎこちなく無理に笑顔を作り、
無理に笑う。この時のイヤーな
感じが、冷や汗をかきに来ている
ようで、私は嫌いだった。
・
そして、センセーが座席に座り、
スピーチを始めると、「ん・・・?!」
と言う程、呂律(ろれつ)の回らない
言葉とも言えないノイズの
オンパレード。池田は、既に、
この時、自由に言葉を発すること
の出来ない老体の身だったのだ。
・
本当は、そんな事で
差別したくも無いが、池田は、
もう人前に姿を現すのは無理な程、
身を持ち崩していたのだ。
・
そんな姿を
・
毎月
見せ続けられ、ある日から、
「思い出の池田センセー」と言った
感じの、在りし日の池田が映った
ビデオを十年前の分から見せつけ
られ、「もう池田はいない!」と
確信した。
・
今もそんな映像スピーチを学会員達
は見せられているのだろうか。日蓮
正宗に立ち返った私は分からない。
・
土台、池田本仏論、池田神格化は
無理だったのだ。生身の人間が、
長寿を得たとしても、永遠に
生き永らえる事など不可能だ。
どんな人間だっていつかは死ぬ。
いつまでも「池田センセーは
お元気です」と
・
何百回
・
幹部達が
言いつのっても、それは虚しさ
ばかりを振りまき、人間の限界
の証明をするに等しい。
・
私は、以前も
・
このブログ記事で
述べたが、泥船には乗りたくは
無かった。今のままでは、多くの
学会員達が、謗法与同罪で堕地獄の
悲惨を逃れる事は出来ない。私は
創価の謗法、日蓮正宗の正義に
気付けたので良かったが、今
・
まだ
残っている学会員達の多くが池田や
幹部に
・
いまだに騙され続けている。
まことに、創価の謗法の集団洗脳の
心理はコワイ
・
と思わざるを得ない。
・
日蓮正宗の御僧侶方は、どんなに
お年を重ねても
・
御言葉はカクシャク
として、あの同時中継の時の池田
のような
・
たどたどしい、濁った
口振り・話し方は誰1人していない。
日顕上人猊下だって、晩年、
頭脳明晰、御言葉も
・
はっきり
・
お話
なされ、年齢だけがあんな呂律の
回らないスピーチの原因とも
思えない。
・
釈尊に敵対して地獄に落ちた
提婆達多(だいばだった)も、釈尊
に反抗した半生を反省し、言葉を
発しようとした刹那、言葉にも
ならない「南無〜」とも聞こえない
言葉で臨終を迎え、堕地獄の末路と
なった。
・
晩年の池田も、大謗法、堕地獄の
業罰・業火の中、言葉が貧相になり、
発声にも困る事態に陥った事は、
想像に難くない。
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
⇒●文章引用元URL●⇒
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
・
⇒●文章引用元URL●⇒
「高利貸し営業部長」だった
極貧「池田大作」の
知られざる屈辱人生
(
・
新「創価学会」を斬る【第7回】)
iVBVBVBVBVBVBVi
gataroi
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
新「創価学会」を斬る【第7回】
[
・
週刊新潮
2003年(平成15年)12月18日号
・
]
山田直樹
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
以下の記事は、池田大作が75
┃
┃
歳の時、すなわち
・
池田大作が
┃
┃
脳梗塞を発症して表舞台から姿
┃
┃
を隠さざるを得なくなった年の
┃
┃
7年前に書かれたものである。
┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
「高利貸し営業部長」だった
極貧「池田大作」の
知られざる屈辱人生
・
32歳で創価学会3代会長に
就任以来、実に43年。
池由大作名誉会長ほど
・
離反者を
生み、さまざまな告発を受けた
人物はいない。学会員の絶対的な
崇拝の対象となる一方で、この
人物の特異な人間性は、常に多く
の裏切りを生み続けた。今や与党・
公明党の事実上のオーナーとして
法王の座を手に入れた池田氏。
連載第7回は、とうしても
触れられたくない
・
その
知られざる過去に迫る。
・
これまで指摘してきたように、
創価学会の行動原理・思考形態は、
日本の新興宗教団体の中でも
極めて特殊と言える。教祖様″を
絶対視し、崇拝し、その言葉を
無批判に受け入れる点は、多くの
新興宗教団体と共通しているが、
敵対者への強い攻撃性や憎悪は、
やはり、この団体の持つ
大きな特徴と言っていいだろう。
・
しかし、これは同時に、
「脱会すれば、このようになる」
との恐怖を学金員に植えつける、
組織を守るための絶大な効果を
もたらしてもいる。そのような
恐怖と憎悪こそが創価学会(員)の
エネルギーを引き出す源泉″
であり、同時に、「自分たちの
している事は正しい。世間も
驚嘆する偉業をなし遂げている」
というカタルシスを
・
多くの学会員
に抱かせる基となっているのも
特色だ。目を輝かせて
・
池田大作氏
の偉大さ、素晴らしさを訴える
学会員を見ていると、これだけの
陶酔感、使命感を多くの学会員に
もたらす池田氏のパワーには
驚嘆せざるを得ない。
・
今回は、その池田大作という人物の
人間性を解明する中から、
学会の根本的な病理を検証したい。
・
公称550万部の創価学会の
機関紙・聖教新聞は、これまでの
連載でも触れたように
・
敵対者への
口汚い誹謗・中傷記事で溢れている。
しかし、もちろん
・
それだけでは
無い。常に1面を飾るのは、
池田大作氏の業績紹介であり、
礼賛記事である。
・
例えば、先月(11月)1ヵ月間の
同紙はどうか。この中で、
勲章など
・
池田氏の受賞関連の
1面トップ記事は実に13にのぼる。
名誉博士2件、名誉市民4件、
顕彰状・感謝状3件、受賞4件
という具合だ。繰り返すが、
これは
・
たった
・
ひと月の間である。
・
<
・
ブラジル
・
マイリンケ市
・
・
SGI会長夫妻を名誉市民に
・
>
(3日付)
・
<
・
人間革命の哲学が
・
21世紀の
・
・
扉を開いた
・
台湾各地から
・
・
池田SGI会長に感謝状
・
>
(9日付)
・
<
・
フィリピン
・
キャピトル大学が
・
・
決定
・
池田SGI会長に
・
・
名誉博士第1号
・
>
(11日付)
・
<
・
カリブ海
・
永遠の美の島ドミニカ
・
・
SGI会長夫妻に
・
・
国家賓客称号
・
>
(15日付)
・
・・・・・・等々である。
・
12月に入っても、
それは変わらない。
12月4日付聖教新聞には、
・
<
・
非暴力
・
源流の国・
・
・
インドで大反響
・
・
ガンジー・キング・イケダ展
・
>
という特大の記事が載っている。
これは、アメリカ、パナマ、
イギリス、ニュージーランド、
ウルグアイなど
・
世界中を巡回
している、ガンジーとキング牧師、
そして池田大作氏の偉業を称える
展覧会の紹介記事だ。その展覧会
が当のガンジーの国・インドで
開催されたというのである。
・
敵対者を口汚く罵り、これまで
言論出版妨害事件や
・
宗門との
激しい抗争を繰り返し、脱会者への
徹底した攻撃を行なってきた
池田大作氏が、よりによって
非暴力・不服従″のマハトマ・
ガンジーや黒人公民権運動の指導者
マーティン・ルーサー・キング牧師と
肩を並べたという展覧会なのだ
から、いくら創価学会が後援する
イベントとはいえ、鼻白む人は
少なくあるまい。
・
●貧困の中の虚と実
・
日本人の美徳の1つに「恥を知る」
があることは、これまで欧米の
文化人類学者が幾度となく
指摘してきた。
・
慎み深さや奥ゆかしさという
言葉でもそれは言い換えられるが、
しかし、多くの日本人には、
毎日毎日、自らが全権を握る機関紙
に
・
自分が勲章や名誉称号を受けた
ことを写真つきで大々的に
報じさせ、あるいは
・
世界中で
「ガンジー・キング・イケダ展」
なるものを開催させる池田が
どう映るだろうか。少なくとも
彼が、その「恥を知る」日本人の特性
とは無線な人物であることだけは
お分りいただけるだろう。
・
いずれにせよ、他の宗教団体指導者
と最も乖離しているのは、池田氏の
異様なまでの勲章へのこだわりや
名誉欲、そして自己顕示欲である。
それが何に起因するかを知るには、
やはり彼の生い立ちから
遡らねばなるまい。
・
池田氏が産声をあげたのは、
1928年1月2日。現在の大田区
大森北2丁目あたりだ。海苔業者、
池田子之吉(ねのきち)・一(いち)
夫婦の第6子(五男)、
本名・太作(たいさく:のち大作と
改名)として生を受けた。
・
頭脳も肉体も取り立てて誇るべき
点の無かった池田少年は、
極貧の少年・青年期を送っている。
・
創価学会側が出している
『年譜・池田大作』(第三文明社刊、
以下『年譜』と略)によれば、
7歳頃から、父・子之吉がリューマチ
で寝込むようになり、この後、
家業の海苔作りを手伝い始めた
と記述されている。
・
兄たちの出征でますます貧しく
なった池田少年は、午前2時に
起床して、海で海苔張り、4時から
新開配達、学校が終われば、
海苔はがし、夕刊配達、夜は
海苔のごみとりといった生活を
送る。尋常小卒業後は、
のちに萩中国民学校と改称される
高等小学校に進学、卒業後は、
新潟鉄工所に勤務。強制疎開や
空襲によるバラック住まいなど、
池田家の貧困生活は
・
子沢山だった
だけに厳しかったようだ。
・
地元に残る数少ない小学校時代
の同級生によると、「昭和17年に
萩中国民学校を卒業する時、
池田君は4組にいました。彼は
とにかく印象のない男だったね。
勉強も目立たないし、身体も
強くない。それに海苔漁師は
みんな貧乏だった。彼の家は
たしか分家で、生活は特に
苦しかったはずです。あとで
創価学会会長があの池田だ
なんていう話になって、
みんな驚いたものですよ」
・
戦争が終わっても、池田青年の
極貧生活は変わらかった。
・
その貧しさは、まだ2代会長
戸田城聖氏の弟子時代の
池田青年が、東大の宗教学者・
小口偉一氏に答えた
インタビューでも窺える。
・
「小学校では栄養不良で三・四回も
死にそこない、元来
・
身体が非常に
弱かったんです。終戦の年には
(持病の結核で)六回目の肋膜(炎)を
していましたし、肛門性もので、
耳や鼻などみんな悪く、血痰が
出てたんです。(略)入信して三年目
の1月に戸田さんの出版に小僧から
入りました。信用組合にも入って
いたんですが、給与も無く乞食同然
で苦しくてしかたなかったんです。
(略)信仰しなかったならば二十三
くらいで死んだだろうと
言われています。」
(56年・『新心理学講座4宗教と
・
・
・
・
信仰の心理学』)
・
当時、池田氏が住んでいた
アパート、青葉荘の
元管理人(78)が述懐する。
「池田さんは、ここに住んで
いました。当時、アパートは
コの字型に3棟ありましてね、
その1つの東向きの4畳半に
住んでましたよ。結核で一時期
酷かったようです。祖母が
熱にうなされる池田さんに薬を
持っていったこともあるそうです。
冬の寒い日、熱があるので、
池田さんが窓を開けて、鏡だけ
そこから出して寝ていたことも
あったと開きました。当時
・
既に
宗教に人っていて、経を唱える
声が大きくて注意したことも
あったようです。」
・
極貧の上、結核にまで侵されて
いるのでは、その生活の悲惨さは
想像を絶するものだっただろう。
・
ジャーナリストの溝口敦氏は、
『池田大作ドキュメント
・
堕ちた庶民の神』で、
・
「普通
・
新興宗教に入信する動機は、
ひとくちに
・
病(気)・貧(困)・争(乱)
と言われるが、池田は
・
その全てを
体験した訳である」と指摘して
いるが、池田氏の特異な人間性は、
こう言った
・
どん底の環境の中で
形づくられたと思われる。
・
先の『年譜』は、
池田氏と創価学会の出会いを
以下のように記している。
・
「47年(19歳)8月14日
・
小学校時代の
同級生に誘われ、創価学会の
座談会に、「協友会」の友人二人を
伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。
戸田城聖と出会う」
・
この時、池田氏は、戸田の人柄に
感銘して突然立ち上がり、
こう述べたという。
・
「先生が、青年らしく勉強し、
実践してごらんと、おっしゃった
ことを信じて、先生に付いて、
勉強させていただきます」
・
さらに、即興詩を披露して
・
感謝の
意を表したことになっている。
・
これは、学会・池田氏の「正史」だが、
池田氏の貧困からの
脱出ストーリー、学会への入信、
さらに現在に至るサクセス物語
には、しばしば手が入れられ、
美談に仕立て上げられている。
実は、この戸田氏との出会いも
虚偽である。
・
ここに登場する三宅宅での出会い
を詳細に語りうる人物がいる。
その家の娘・三宅妙子さんだ。
三宅さんは父親が地元・蒲田の
支部長を務め、しばしば自宅で
座談会が開かれていた。そこには
多くの信者が集った。池田青年は
確かに妙子さんの姉が誘ってきた
3人の小学校時代の同級生の1人
として、座談会に現れてはいる。
が、「いま創価学会で言われて
いるような、池田と戸田先生の
伝説的な出会いは
・
そこでは
ありませんでした」と
妙子さんはいう。
・
「『人間革命』や学会の書物には、
美化された出会いが描かれて
いますが、その日、我が家には
戸田先生は
・
いらっしゃらなかった
のです。もちろん、池田は
・
詩も
詠んでいませんでしたよ。彼は
我が家に来てから、10日後に
入信します。私は池田にデートに
誘われ、日比谷に映画を見に行った
こともあるので、当時のことは
よく覚えています。あの頃の
池田は、今に見ていて下さい、
僕のこれからを見て下さい″
と、よく言っていました。
上昇志向が非常に強い人でした。」
・
●金融取り立てで辣腕を振るう
・
創価学会に入信し、戸田と出会った
池田氏は、やがて権力への階段を
駆け上がっていく。
・
「大蔵商事」
・
・・・現在の池田氏を語る
上で、避けて通ることのできない
キーワードである。当時、
戸田が
・
自分の愛人らを役員に据え、
小口金融、今でいう消費者金融の
大蔵商事を設立、ここで
メキメキ頭角を現したのが
池田氏だったのだ。池田氏は、
この大蔵商事営業部長という職を
きっかけに
・
一気に
・
それまでの貧困
から抜け出し、創価学会第3代会長
への道を実き進み始めるのである。
・
創価学会元教学部長の
原島嵩(はらじま
・
たかし)氏が
振り返る。「大蔵商事というのは、
今のサラ金の原型とでもいう
ものです。利回りがいいという
売り文句で資金調達をし、それを
貸し付ける。貸付先の多くは
個人、会社もあったようですが、
いずれにしても学会員たちでした。
彼はそこで、資金調達や取立てに
殊腕を振るい、やがて学会を
資金面で牛耳っていったわけです。」
・
どの世界でも、財布の紐を
握るものは一番強い。
・
小川頼宣(おがわ
・
よりのぶ)・
創価学会本部
・
元広報部副部長が
言う。
「戸田城聖第2代会長は
・
金の面は
自分で何とかしようとして、
大蔵商事など金貸しや信用金庫など
を随分とやったんです。その尻拭い
と言うか、酷な言い方をすれば
金貸しの手先をしていたのが
池田大作です。彼も
・
当初は
好きで
・
やっていたわけではないと
思うのですよ。しかし、彼には
才能があったようで、池田が
ここ金あるよ″という家には、
見た目は貧乏な家でも必ず金が
あった、ということを古参の幹部
から開きました。逆に
・
門構えの
立派な家の前でここはどうだ?″
なんて聞いても、池田が
ここにはない″と言えば、
その通りだったそうです。」
・
先の池田氏の小学校時代の
同級生は、大蔵商事に入った頃の
池田氏をこう語る。
「昭和25年に池上でやった最初の
同窓会に現れた時だったな。あの時
のことは今でも忘れられない。昭和
17年卒業組は今昔(こんじゃく)会
という同窓会を開くんだけど、
その時、池田は遅刻してきた。
同窓会に顔を出したのは
後にも先にもその時だけだよ。
遅刻してきたのに、恩師に挨拶も
せずに、どっかりと席をおろして、
いきなり演説を始めたんだ。
大きな声で。みんな驚いたよ。
遅刻してきたのに、いきなり
ですからね。ひとしきり自分の話が
終わったら、初めておっ先生、
元気か″なんて片手をあげた。
田中角栄みたいなあれだよ。
目立たないだけのあの男が、
いつの間にか
・
そういう尊大さを
身につけていたんだ。」
・
大蔵商事時代の彼が、水を得た魚の
ごとく活き活きとし、さらに周囲が
驚くほどの尊大さを身に着け始めた
のは注目に値する。
・
やがて戸田から信頼を得た池田氏は
本部の青年部を経て、参謀室長に
抜擢されることになる。池田氏は
のちに、大蔵商事時代について、
こんな発言を残している。
・
「大蔵商事では一番いやな仕事を
した。どうしてこんないやな仕事を
するのかと思った。鶴見で、全く
未開の所へ地盤を作りながら、
同時に学会員を起こしてきた。
私は
・
何も無いところから闘った。
当時は
・
戸田先生が世界一だと
言っても通用しない。
本当に苦戦の連続であった。」
・
「戸田先生は葉っぱを御札にする。
本当にする。そうしなければ
広宣流布は出来ない。必ず
そうする。広宣流布の為ならば
葉っぱを御札にしてみせる、という
戸田先生の狂信が今日の学会を
築いた。それだけに厳しかった。
学会は
・
この精神を忘れては
ならない。」
(いずれも68年2月10日の
『社長会』にて)
・
この高利貸し時代は、あらゆる面に
おいて、今の池田氏を作る基と
なったことは間違いない。
・
そして58年4月、肝臓と糖尿が
悪化して戸田が鬼籍に入った後、
池田氏は権力闘争に勝ち抜き、
60年5月、第3代創価学会会長に
上り詰めるのである。
・
池田氏は
・
よほど
・
この大蔵商事の
高利貸し時代に触れられたくない
のか、先の『年譜』でも、
「50年(22歳)11月27日
・
この年の
秋より
・
戸田城聖を顧問として
営業を開始していた大蔵商事の
営業部長となる」と、
簡単な記述があるのみだ。
・
やはり、「消費者金融の営業部長」の
肩書は、「池田博士」には
・
あっては
ならないものなのだろう。
・
●怨念とコンプレックス
・
長い長い池田氏の人生を語るには
とても紙幅が足りないが、彼の
人生を振り返ると少年・青年期の
貧困や病気、そして学歴への
コンプレックスや怨念が
・
権力を
手中にした途端、それまでの
鬱憤を晴らすかのように
一気に解き放たれたように
思えてならない。
・
会長就任の5年後、37歳の
池田会長にインタビューした
評論家・高瀬広居氏の
『人間革命をめざす池田大作
・
その思想と生き方』(65年)の
一節は興味深い。
・
「池田会長は、モダンな本部応接室
のアームチェアーにアグラをかき
直すと、煙草を一服し、静かに、
そして激しい語気で言った。
・
『
・
私は、日本の国主であり、
・
・
大統領であり、精神界の王者
・
・
であり、思想文化一切の指導者・
・
・
最高権力者である
・
』
・
同席の大幹部数人は深く肯き、
息を飲んだ。」
・
何年か前までは、拭い難い
コンプレックスの只中にいた青年が、
短期間にこれだけの言葉を吐くほど
変貌したことに驚くのは、筆者だけ
ではあるまい。そして同時に
この37歳という年齢で、既に
池田氏を諌める人物も居なくなった
のは、学会にとってだけで無く、
池田氏本人にとっても不幸なこと
だったに違いない。
・
池田氏、そしてその周囲は、
その後、池田神格化″のために、
滑稽なまでに
・
あらゆる手を
講じるようになるのである。
・
元学会幹部の解説では、
・
「日蓮大聖人が修行したという
由緒ある千葉県の清澄寺という
お寺では、寺を初めて訪ねた
池田氏が、境内にある杉の大木を
なでながら久しぶりだな″と
呟くエピソードがあります。
池田先生は700年前の日蓮大聖人の
事を知っていらっしゃる。きっと
大聖人の生まれ変わりに違いない、
と会員に思わせるわけです。
しかし、その木は
・
実際には
樹齢400年だったそうです。」
・
また、池田氏は
・
よく
・
会員の前で
ピアノを弾くが、これも鍵盤を叩く
だけで、実際には
・
自動演奏の
ピアノだったり、後ろから
メロディーを流しているのだそうだ。
それでも
・
女子部員たちは感激で、
涙、涙なのだという。
・
「池田が訪れる会場周辺の花を
咲かせるという古典的な演出も
あります。期日に合わせ、地元の
人が何週間も前からドライヤーで
花の蕾を温めるのです。多くの
会員が梯子を持ち出して延々と
その作業を行い、見事、満開の桜を
咲かせたこともあります。先生の
お陰で一夜にして桜が咲いた、
という訳です。池田は見事だ。
よくやったね″と満足気に言い、
それを開いて会員達は
・
また
・
涙を
流すのです。魚など1匹もいない
ドブ池に事前に鯉を放流して
池田に餌を撒かせ、ここには魚は
いないのに、先生が餌付けすると
鯉まで現れてしまった″と会員達を
感激させた例もあります」
・
(同)
・
冒頭にも触れた異常な勲章や
博士号のコレクターぶりといい、
池田氏がここまで自分を神格化する
根本は一体なんなのか。
・
前出の原島嵩氏によれば、
・
「やはり根底にあるのは池田の
コンプレックスでしょう。例えば、
彼の学歴は富士短大中退です。
しかし、20年近く経ってから、
卒論を桐村泰次(きりむら
・
たいじ)
という教学部の幹部に
書かせてまで卒業しました。
幹部には東大卒や早慶卒なども
多いのですが、彼らを前にして
お前たち、馬鹿だろう″などと
言ってははい″と答えさせ、
悦に入っていましたね。最高学府を
出た人たちをひれ伏させることに
彼は喜びを感じる訳です。
そして
・
もう一つは、権力への
コンプレックスです。彼は57年の
参院補選(古参の創価学会員を擁立)
において
・
選挙違反で逮捕(大阪事件)
された訳ですが(自供により減刑)、
この時に権力の恐ろしさを学び、
復讐を誓い、それが今の行動に
つながっているのだと思います。」
・
こうして独裁者となった池田は、
折々に
・
こんな発言を
残すようになる。
・
「今の政治家は、やれ勲章を貰う
とか、金を取るとか、また有名人は
利己主義に成って、自分の名だけ
売って、金儲けをするとか、
滅茶苦茶な世界であります。私ども
創価学会員は、位も要らない、
有名で無くともよい、大臣の地位も
要らない、また
・
権力も要らない。」
(63年8月3日付、聖教新聞)
・
「勝つか負けるか。やられたら
やりかえせ。世間などなんだ。
私は恐れなど微塵もない。
勇者は私だ。(中略)
反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』
で
・
いいんだ。」
(埼玉指導
・
89年3月12日)
・
「2001年5月3日、広宣流布の同志を
裏切った者の大罪を、厳然と天下に
公表したい。(略)宗門の悪侶、
学会の反逆者を書き連ね、その
罪科を、血涙をもって後世に
残したい。永久追放の証としたい。」
(94年9月2日付、聖教新聞)
・
「師である私が迫害を受けている。
仇を討て。言われたら言い返す。
打ち返す。切り返す。
叫ばなければ負けである。
戸田先生も、牧口先生の仇をとると
立ち上がった。私も戸田先生の仇
を取るために立った。私の仇を
討つのは、創価同窓の諸君だ。」
(96年11月3日
『創価同窓の集い』にて)
・
その言葉の激しさには、やはり
驚嘆させられる。創価学会が持つ、
敵対者への激しい憎悪や復讐心は、
彼の屈折した半生から出てきたもの
と思わざるをえないのだ。
・
●日本支配の欲望
・
「彼特有の他人や敵への異常な
攻撃性というのは、持って生まれた
性格の他に自身の極貧、病弱体質、
能力の凡庸さへのコンプレックス
からくる世間への怨念が
影響していると思います。」
・
というのは、ジャーナリストの
乙骨正生氏だ。
・
「池田氏は口癖のように
自分は戸田先生の復讐のために
立ち上がった″師である自分が
迫害された時は、自分の仇を
討ってくれ″と言いますが、これは
自分を認めようとしない世間への
強い恨みに満ちたものだと
思います。海外から何百という勲章
をもらおうと、池田氏をよく知る
日本では、静岡の富士宮市の
名誉市民以外、なんの称号も
もらえないのです。海外の大学
から名誉教授の肩書をもらい、
様々な勲章をもらって
悦に入っているのは、いまだに
そのコンプレックスを克服できて
いない証拠では無いでしょうか。」
・
宗教学者の
山崎龍明(やまざき
・
たつあき)氏
(武蔵野大学教授)も、やはり
コンプレックスをキーワードに、
こう総括する。
・
「オウムの麻原もそうでしたが、
私も
・
やはり
・
池田氏を考える場合に
この言葉が第1に浮かびます。
大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴も
無い彼が、社会的に認知されている
人をコントロールできる快感を
覚えたのでは無いでしょうか。
彼らの共通点はエリートを支配する
ことに喜びを感じることです。
池田さんは
・
実は
・
非常に小心者で、
自信の無い人だと思います。
自信あるリーダーというのは、
相手を一方的に支配しようとは
しません。気が小さいからこそ、
怖いのです。しかし、問題は
・
その
リーダーに率いられ、肥大化した
集団が信者どころか、日本全体を
支配しようとしていることです。
宗教、教団が持っている暴力性、
排他性、差別性というものは
物凄く強い。ヨーロッパの歴史を
見れば分ると思いますが、肥大化
したこういう集団を動かした時には
無限の力が働き、人間一人一人を
蹂躙していくことは
・
歴史が証明
しています。排他、除外というもの
は、宗教によって美化されます。
普通の組織、政治とは違った、
宗教自身の持つ恐ろしさを
忘れてはなりません。」
・
日本人は、
この特異な人間性を持つ人物に
わが国の将来を託すのだろうか。
それは果して
国民の総意なのだろうか。
・
衆院で僅か34議席をとるだけの
政党と、その事実上のオーナー・
池田大作氏に国の政策を牛耳られる
ことを容認するとしたら、それは
民主主義の放棄に等しい行為
なのでは無いか。
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
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創価学会本部幹部は池田嫌い
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!?
iVBVBVBVBVBVBVi
SO★KAワイドショーch
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