〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
●懐メロ創作歌詞176用●
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
『池田大作「創価学会」名誉会長
担当していた元看護師が語る
「厳戒病室」本当の病状』
iCute
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
魚拓元
『週刊文春』2011年10月27日号
この外部記事で、2011年の時点で
池田大作が缶詰めにされて
いる建物だと実名を挙げられて
いるのは「南元センター」。この
建物についての情報と画像も
載せておこうと思う。
googlemap
Google Map
〒160-0012東京都新宿区南元町5
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
⇒●画像引用URL●⇒
南元センター(資料)
-実事求是-
創価学会の詐術を読み解く
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


⇒●文章引用元URL●⇒
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
なぜ、熱心な学会員でもあった
Aさんが池田氏の病状を明らかに
することを決意したのか。
「私は池田先生をお慕いして
創価学会へ入りました。今もその
尊敬の思いは変わっていません。
私が先生の看護スタッフを
始めた頃は、まだ先生もお元気で、
神様≠セと思っていました。
しかし、先生のお世話をするうち
に、先生も寿命のある人間なんだ、
と痛感したのです。幹部の方々は、
心配する我々学会員に対して
『先生は元気です』とアピールする
ばかりです。しかし、それは
学会員を欺き、池田先生を
冒瀆(ぼうとく)しているの
同じではないでしょうか。
末端の学会員にも先生の現状を
お知らせして、先生のために
大勤行会(だいごんぎょうかい)を
開(ひら)いたほうがいいと
思うのです。それが、今回、
私がお話しした理由です。」
話を池田氏の病室に戻そう。
Aさんは、衰弱してゆく池田氏の
看護をしながら心を痛める日々が
続いた、と振り返る。
「以前は病室の隣に大理石の
お風呂があってよく入られていた
のですが、その浴室は使われなく
なりました。大理石の浴槽の
そばに車椅子ごと入れる介護用の
浴槽があって、そちらを利用する
ようになったのです。入浴は
四、五人がかりの作業でした。
回数も、私が勤務していた当時は
週二回ほどになっていました。
看護師がオムツを交換し、
婦長など地位の高い方が、
病衣を着た先生のお顔などを
拭いでいました。」
池田氏専用のフロアにいる看護師
は、日勤三名、夜勤二名の計五名。
24時間体制で勤務していたという。
その他にも警備員が警備室に三名、
エレベーター前に一名、病室の前に
一名配置されている。病室には
秘書とともに、監視カメラが
設置され、ナースステーションで
チェックできるようになっていた。
階段には防火扉が設置され、普段は
鍵が掛けられていた。そのため、
昇り降りできるのはエレベーター
のみ。そこで警備員が
出入りする人間を見張っていた。
「まず驚いたのは、最上階の
物々しい雰囲気です。警備員は
第1警備の方々でした。どの人も
体格が良くて、何か格闘技でも
やってらっしゃるような人だと
思います。目つきが鋭くて、
通常の業務をしている私たちも
常に監視下に置かれているような
感じでした。四階以下は
金城会の方が警備をしています。」
第1警備や金城会とは
どんな部署なのか。学会に
詳しい人物によれば、
「第1警備」は池田名誉会長直属の
エリート警備部隊。また、
「金城会」は全国各地域から
集められた一般の会員で柔道や
合気道の有段者が多いことでも
有名です。こちらも池田会長の警護
が主な業務といわれていてます。
警護体制だけでなく、病室の
作りにも秘密が隠されていた、
とAさんは話す。
「先生の病室は縦が約七メートル、
横が約五メートルの広さです。
白っぽい壁は鉄製で、
『マシンガンで撃たれても
びくともしない』と
説明を受けました。
病室の窓ガラスも
防弾ガラスだと聞きました。」
まるで軍事施設のような
堅牢さだが、一歩病室へ入ると、
そこには瀟洒(しょうしゃ)な洋間が
広がっているという。
「先生の病室にはキングサイズの
ベッドがあり、シーツ、
掛布団カバー、枕は全て
金色のペーズリー柄でした。
ベッドの側には、小さな
テーブルと椅子が置いてあり、
┏━━━━━━━━━┓
お元気なときには、
┗━━━━━━━━━┛
そこでよく筆ペンを
手に取って和歌を詠んで
いらっしゃいました。他に
来客用の応接セットもあります。
テーブル、ソファーと
椅子が二つ。また病室には
絨毯が敷かれているのですが、
『バッキンガム宮殿に使われて
いる絨毯と同様のもの』と
言われました。一般の病室とは
全く違い、外国の洋館みたいな
お部屋なのです。」
備え付けの棚には、大きなテレビ、
先述した著作や写真などが並ぶ。
花瓶には様々な種類の生花が
飾られていた。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
病室でも髪型はオールバック
┗━━━━━━━━━━━━━┛
「香峯子(かねこ)夫人が週に
何度か病室にいらっしゃって
花を取り換えていました。
エレベーターで五階へ上がるとき
は、警備員や看護師などのスタッフ
は整列してお迎えするのです。
夫人は長居することもなくて、
1時間くらいでご自宅に戻られる
ことが多かった。」
また、池田氏の病室では
重要なルールがあった。
「1番初めに注意されたことは
『病室の電気は切ってはいけない』
ということでした。
先生は明かりが消えると
よく眠れないそうなんです。
昼夜逆転されることも少なくなく、
昼間に眠ってらっしゃることも
多かったですね。病室の天井は
折上(おりあげ)天井に
なっていて、蛍光灯が何十本も
取りつけられていました。」
実際、南元センターの周囲から
池田氏の病室とされる場所を
見上げると、記者が確認を
行なった夜には、いつも
ブラインドの隙間から
かすかに明かりが漏れていた。
厳重に警護された池田氏の病室。
そこに足を踏み入れるのは
香峯子(かねこ)夫人など池田氏の
家族と医療スタッフ、ごく限られた
学会の幹部だけだったという。
「池田先生の側近の方はいらして
います。幹部の中でも本当に
重職の方がいらしていました。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
先生が話ができたときには、
┗━━━━━━━━━━━━━┛
病室の隣にある会議室で
色々話をされていたようです。
髪の毛やお顔は来客があるので、
二日に一度くらい手入れして
いました。髪型も皆さんが
ご存知のオールバックです。
先生はいつも身ぎれいに
していらっしゃいました。
髭は電気カミソリなどで丁寧に
剃らせていただいています。
夫人からも見た目には気を遣う
ように指示が出ていて、きちんと
させていただきました。」
先述したように、池田氏は
1年以上も公の場に
姿を見せていないが、
「学会系の新聞や雑誌には、
池田先生のメッセージや対談
の様子が描かれていますね。
┏━━━━━━━━━━━┓
先生はそんなことが
出来るようなお体では
無いのに・・・・・・」
┗━━━━━━━━━━━┛
確かに、学会の機関紙『聖教新聞』
によれば、地震発生後の3月21日、
池田名誉会長は東京・新宿区の
創価学会第二別館で勤行を行なった
と報じた。また、5月3日付の同紙
には夫人とのツーショット写真が
掲載されており、キャプションには
「4月19日、東京・新宿区で」
と記している。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
南元センター取材は「拒否」
┗━━━━━━━━━━━━━┛
学会系の総合誌「潮(うしお)」でも、
海外の要人たちとの対談を連載。
6月号からは、モスクワ大学総長、
ヴィクトル・A・サドーヴニチ氏との
対談が掲載された。この連載対談の
中では、東日本大震災などにも
触れられ、池田氏が、「本年五月、
ロシア国立交響楽団が来日公演し、
各地で大きな反響を呼びました」と
言及しているが、そんなことが
可能なのか。創価学会に尋ねると、
「(聖教新聞の夫人との写真は)
今年の4月19日に撮影されたもの。
また、連載対談は近年の往復書簡
をまとめたものです」
さらにAさんの
真摯な証言に対しては、
「ご指摘は全て事実無根です」
(創価学会広報室)
否定するのであれば、南元センター
の五階を見せてほしいと求めたが、
「部外者の方を入れたことは
ありません。もしそこに
名誉会長がおられなければ、
どこかに移した、と
言われるだけでしょう」と
受け入れられなかった。
別の学会関係者も言下に否定する。
「南元センターは一般の学会員も
利用する施設。五階に入ったこと
ありませんが、そこに
池田先生がおられるなら、
隠しておけるはずがありません。
今も池田先生は、秘書を通じて
さまざまな指示をなされています」
だが、先述したように、下の階で
働いていたAさんでさえ、
五階勤務になるまでは、そこに
池田氏がいるなどとは、想像だに
していなかったのだ。そもそも
家族やごく一握りの幹部を除き、
池田氏の所在や現状が、彼の
健在を祈る一般の学会員にさえ
隠し通されていること自体に
無理があるのではないか。
一刻も早い真実の開示が待たれる。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
⇒●文章引用元URL●⇒

脳がじわじわと
病気に侵(おか)され、
「神がかりなスピーチ」が
出来なくなり、
創価学会本部から
ガラクタ認定され、
終(つい)には「演壇からの撤退」を
余儀なくされてしまった
池田大作「名誉会長」。
その当時の実録文献。
時は西暦2010年(平成22年)。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
⇒●文章引用元URL●⇒
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
池田大作の同時中継、哀れな
提婆達多並みの呂律(ろれつ)
Kaettekita私が思うあの事この事
Return(GetBackPart2)
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
今から何年も前、創価学会員だった
私含め家族は、自家用車で毎月1回、
せっせと文化会館へ同時中継の為に
駆り出され映像を見に行っていた。
その建物はいかにも新興宗教の
施設そのものだったが、当時は
何も疑問にも思わなかった。
男子部長、女子部婦人部部長挨拶
・・・と続き、いよいよ池田大作氏が
お出ましになる(スクリーンの映像)。
センセーは、何とか笑いを取ろう
と必死のようで、同時中継の中の
大勢の人も、そこの会館の人も、
ぎこちなく無理に笑顔を作り、
無理に笑う。この時のイヤーな
感じが、冷や汗をかきに来ている
ようで、私は嫌いだった。
そして、センセーが座席に座り、
スピーチを始めると、「ん・・・?!」
と言う程、呂律(ろれつ)の回らない
言葉とも言えないノイズの
オンパレード。池田は、既に、
この時、自由に言葉を発すること
の出来ない老体の身だったのだ。
本当は、そんな事で
差別したくも無いが、池田は、
もう人前に姿を現すのは無理な程、
身を持ち崩していたのだ。
そんな姿を毎月
見せ続けられ、ある日から、
「思い出の池田センセー」と言った
感じの、在りし日の池田が映った
ビデオを十年前の分から見せつけ
られ、「もう池田はいない!」と
確信した。
今もそんな映像スピーチを学会員達
は見せられているのだろうか。日蓮
正宗に立ち返った私は分からない。
土台、池田本仏論、池田神格化は
無理だったのだ。生身の人間が、
長寿を得たとしても、永遠に
生き永らえる事など不可能だ。
どんな人間だっていつかは死ぬ。
いつまでも「池田センセーは
お元気です」と何百回幹部達が
言いつのっても、それは虚しさ
ばかりを振りまき、人間の限界
の証明をするに等しい。
私は、以前もこのブログ記事で
述べたが、泥船には乗りたくは
無かった。今のままでは、多くの
学会員達が、謗法与同罪で堕地獄の
悲惨を逃れる事は出来ない。私は
創価の謗法、日蓮正宗の正義に
気付けたので良かったが、今まだ
残っている学会員達の多くが池田や
幹部にいまだに騙され続けている。
まことに、創価の謗法の集団洗脳の
心理はコワイと思わざるを得ない。
日蓮正宗の御僧侶方は、どんなに
お年を重ねても御言葉はカクシャク
として、あの同時中継の時の池田
のようなたどたどしい、濁った
口振り・話し方は誰1人していない。
日顕上人猊下だって、晩年、
頭脳明晰、御言葉もはっきりお話
なされ、年齢だけがあんな呂律の
回らないスピーチの原因とも
思えない。
釈尊に敵対して地獄に落ちた
提婆達多(だいばだった)も、釈尊
に反抗した半生を反省し、言葉を
発しようとした刹那、言葉にも
ならない「南無〜」とも聞こえない
言葉で臨終を迎え、堕地獄の末路と
なった。
晩年の池田も、大謗法、堕地獄の
業罰・業火の中、言葉が貧相になり、
発声にも困る事態に陥った事は、
想像に難くない。
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
⇒●文章引用元URL●⇒
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

⇒●文章引用元URL●⇒
「高利貸し営業部長」だった
極貧「池田大作」の
知られざる屈辱人生
(新「創価学会」を斬る【第7回】)
gataroi
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
新「創価学会」を斬る【第7回】
[週刊新潮
2003年(平成15年)12月18日号]
山田直樹
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
以下の記事は、池田大作が75
歳の時、すなわち池田大作が
脳梗塞を発症して表舞台から姿
を隠さざるを得なくなった年の
7年前に書かれたものである。
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
「高利貸し営業部長」だった
極貧「池田大作」の
知られざる屈辱人生
32歳で創価学会3代会長に
就任以来、実に43年。
池由大作名誉会長ほど離反者を
生み、さまざまな告発を受けた
人物はいない。学会員の絶対的な
崇拝の対象となる一方で、この
人物の特異な人間性は、常に多く
の裏切りを生み続けた。今や与党・
公明党の事実上のオーナーとして
法王の座を手に入れた池田氏。
連載第7回は、とうしても
触れられたくないその
知られざる過去に迫る。
これまで指摘してきたように、
創価学会の行動原理・思考形態は、
日本の新興宗教団体の中でも
極めて特殊と言える。教祖様″を
絶対視し、崇拝し、その言葉を
無批判に受け入れる点は、多くの
新興宗教団体と共通しているが、
敵対者への強い攻撃性や憎悪は、
やはり、この団体の持つ
大きな特徴と言っていいだろう。
しかし、これは同時に、
「脱会すれば、このようになる」
との恐怖を学金員に植えつける、
組織を守るための絶大な効果を
もたらしてもいる。そのような
恐怖と憎悪こそが創価学会(員)の
エネルギーを引き出す源泉″
であり、同時に、「自分たちの
している事は正しい。世間も
驚嘆する偉業をなし遂げている」
というカタルシスを多くの学会員
に抱かせる基となっているのも
特色だ。目を輝かせて池田大作氏
の偉大さ、素晴らしさを訴える
学会員を見ていると、これだけの
陶酔感、使命感を多くの学会員に
もたらす池田氏のパワーには
驚嘆せざるを得ない。
今回は、その池田大作という人物の
人間性を解明する中から、
学会の根本的な病理を検証したい。
公称550万部の創価学会の
機関紙・聖教新聞は、これまでの
連載でも触れたように敵対者への
口汚い誹謗・中傷記事で溢れている。
しかし、もちろんそれだけでは
無い。常に1面を飾るのは、
池田大作氏の業績紹介であり、
礼賛記事である。
例えば、先月(11月)1ヵ月間の
同紙はどうか。この中で、
勲章など池田氏の受賞関連の
1面トップ記事は実に13にのぼる。
名誉博士2件、名誉市民4件、
顕彰状・感謝状3件、受賞4件
という具合だ。繰り返すが、
これはたったひと月の間である。
ブラジルマイリンケ市
SGI会長夫妻を名誉市民に
(3日付)
人間革命の哲学が21世紀の
扉を開いた台湾各地から
池田SGI会長に感謝状
(9日付)
フィリピンキャピトル大学が
決定池田SGI会長に
名誉博士第1号
(11日付)
カリブ海永遠の美の島ドミニカ
SGI会長夫妻に
国家賓客称号
(15日付)
・・・・・・等々である。
12月に入っても、
それは変わらない。
12月4日付聖教新聞には、
非暴力源流の国・
インドで大反響
ガンジー・キング・イケダ展
という特大の記事が載っている。
これは、アメリカ、パナマ、
イギリス、ニュージーランド、
ウルグアイなど世界中を巡回
している、ガンジーとキング牧師、
そして池田大作氏の偉業を称える
展覧会の紹介記事だ。その展覧会
が当のガンジーの国・インドで
開催されたというのである。
敵対者を口汚く罵り、これまで
言論出版妨害事件や宗門との
激しい抗争を繰り返し、脱会者への
徹底した攻撃を行なってきた
池田大作氏が、よりによって
非暴力・不服従″のマハトマ・
ガンジーや黒人公民権運動の指導者
マーティン・ルーサー・キング牧師と
肩を並べたという展覧会なのだ
から、いくら創価学会が後援する
イベントとはいえ、鼻白む人は
少なくあるまい。
●貧困の中の虚と実
日本人の美徳の1つに「恥を知る」
があることは、これまで欧米の
文化人類学者が幾度となく
指摘してきた。
慎み深さや奥ゆかしさという
言葉でもそれは言い換えられるが、
しかし、多くの日本人には、
毎日毎日、自らが全権を握る機関紙
自分が勲章や名誉称号を受けた
ことを写真つきで大々的に
報じさせ、あるいは世界中で
「ガンジー・キング・イケダ展」
なるものを開催させる池田が
どう映るだろうか。少なくとも
彼が、その「恥を知る」日本人の特性
とは無線な人物であることだけは
お分りいただけるだろう。
いずれにせよ、他の宗教団体指導者
と最も乖離しているのは、池田氏の
異様なまでの勲章へのこだわりや
名誉欲、そして自己顕示欲である。
それが何に起因するかを知るには、
やはり彼の生い立ちから
遡らねばなるまい。
池田氏が産声をあげたのは、
1928年1月2日。現在の大田区
大森北2丁目あたりだ。海苔業者、
池田子之吉(ねのきち)・一(いち)
夫婦の第6子(五男)、
本名・太作(たいさく:のち大作と
改名)として生を受けた。
頭脳も肉体も取り立てて誇るべき
点の無かった池田少年は、
極貧の少年・青年期を送っている。
創価学会側が出している
『年譜・池田大作』(第三文明社刊、
以下『年譜』と略)によれば、
7歳頃から、父・子之吉がリューマチ
で寝込むようになり、この後、
家業の海苔作りを手伝い始めた
と記述されている。
兄たちの出征でますます貧しく
なった池田少年は、午前2時に
起床して、海で海苔張り、4時から
新開配達、学校が終われば、
海苔はがし、夕刊配達、夜は
海苔のごみとりといった生活を
送る。尋常小卒業後は、
のちに萩中国民学校と改称される
高等小学校に進学、卒業後は、
新潟鉄工所に勤務。強制疎開や
空襲によるバラック住まいなど、
池田家の貧困生活は子沢山だった
だけに厳しかったようだ。
地元に残る数少ない小学校時代
の同級生によると、「昭和17年に
萩中国民学校を卒業する時、
池田君は4組にいました。彼は
とにかく印象のない男だったね。
勉強も目立たないし、身体も
強くない。それに海苔漁師は
みんな貧乏だった。彼の家は
たしか分家で、生活は特に
苦しかったはずです。あとで
創価学会会長があの池田だ
なんていう話になって、
みんな驚いたものですよ」
戦争が終わっても、池田青年の
極貧生活は変わらかった。
その貧しさは、まだ2代会長
戸田城聖氏の弟子時代の
池田青年が、東大の宗教学者・
小口偉一氏に答えた
インタビューでも窺える。
「小学校では栄養不良で三・四回も
死にそこない、元来身体が非常に
弱かったんです。終戦の年には
(持病の結核で)六回目の肋膜(炎)を
していましたし、肛門性もので、
耳や鼻などみんな悪く、血痰が
出てたんです。(略)入信して三年目
の1月に戸田さんの出版に小僧から
入りました。信用組合にも入って
いたんですが、給与も無く乞食同然
で苦しくてしかたなかったんです。
(略)信仰しなかったならば二十三
くらいで死んだだろうと
言われています。」
(56年・『新心理学講座4宗教と
信仰の心理学』)
当時、池田氏が住んでいた
アパート、青葉荘の
元管理人(78)が述懐する。
「池田さんは、ここに住んで
いました。当時、アパートは
コの字型に3棟ありましてね、
その1つの東向きの4畳半に
住んでましたよ。結核で一時期
酷かったようです。祖母が
熱にうなされる池田さんに薬を
持っていったこともあるそうです。
冬の寒い日、熱があるので、
池田さんが窓を開けて、鏡だけ
そこから出して寝ていたことも
あったと開きました。当時既に
宗教に人っていて、経を唱える
声が大きくて注意したことも
あったようです。」
極貧の上、結核にまで侵されて
いるのでは、その生活の悲惨さは
想像を絶するものだっただろう。
ジャーナリストの溝口敦氏は、
『池田大作ドキュメント
堕ちた庶民の神』で、
「普通新興宗教に入信する動機は、
ひとくちに病(気)・貧(困)・争(乱)
と言われるが、池田はその全てを
体験した訳である」と指摘して
いるが、池田氏の特異な人間性は、
こう言ったどん底の環境の中で
形づくられたと思われる。
先の『年譜』は、
池田氏と創価学会の出会いを
以下のように記している。
「47年(19歳)8月14日小学校時代の
同級生に誘われ、創価学会の
座談会に、「協友会」の友人二人を
伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。
戸田城聖と出会う」
この時、池田氏は、戸田の人柄に
感銘して突然立ち上がり、
こう述べたという。
「先生が、青年らしく勉強し、
実践してごらんと、おっしゃった
ことを信じて、先生に付いて、
勉強させていただきます」
さらに、即興詩を披露して感謝の
意を表したことになっている。
これは、学会・池田氏の「正史」だが、
池田氏の貧困からの
脱出ストーリー、学会への入信、
さらに現在に至るサクセス物語
には、しばしば手が入れられ、
美談に仕立て上げられている。
実は、この戸田氏との出会いも
虚偽である。
ここに登場する三宅宅での出会い
を詳細に語りうる人物がいる。
その家の娘・三宅妙子さんだ。
三宅さんは父親が地元・蒲田の
支部長を務め、しばしば自宅で
座談会が開かれていた。そこには
多くの信者が集った。池田青年は
確かに妙子さんの姉が誘ってきた
3人の小学校時代の同級生の1人
として、座談会に現れてはいる。
が、「いま創価学会で言われて
いるような、池田と戸田先生の
伝説的な出会いはそこでは
ありませんでした」と
妙子さんはいう。
「『人間革命』や学会の書物には、
美化された出会いが描かれて
いますが、その日、我が家には
戸田先生はいらっしゃらなかった
のです。もちろん、池田は詩も
詠んでいませんでしたよ。彼は
我が家に来てから、10日後に
入信します。私は池田にデートに
誘われ、日比谷に映画を見に行った
こともあるので、当時のことは
よく覚えています。あの頃の
池田は、今に見ていて下さい、
僕のこれからを見て下さい″
と、よく言っていました。
上昇志向が非常に強い人でした。」
●金融取り立てで辣腕を振るう
創価学会に入信し、戸田と出会った
池田氏は、やがて権力への階段を
駆け上がっていく。
「大蔵商事」・・・現在の池田氏を語る
上で、避けて通ることのできない
キーワードである。当時、
戸田が自分の愛人らを役員に据え、
小口金融、今でいう消費者金融の
大蔵商事を設立、ここで
メキメキ頭角を現したのが
池田氏だったのだ。池田氏は、
この大蔵商事営業部長という職を
きっかけに一気にそれまでの貧困
から抜け出し、創価学会第3代会長
への道を実き進み始めるのである。
創価学会元教学部長の
原島嵩(はらじまたかし)氏が
振り返る。「大蔵商事というのは、
今のサラ金の原型とでもいう
ものです。利回りがいいという
売り文句で資金調達をし、それを
貸し付ける。貸付先の多くは
個人、会社もあったようですが、
いずれにしても学会員たちでした。
彼はそこで、資金調達や取立てに
殊腕を振るい、やがて学会を
資金面で牛耳っていったわけです。」
どの世界でも、財布の紐を
握るものは一番強い。
小川頼宣(おがわよりのぶ)・
創価学会本部元広報部副部長が
言う。
「戸田城聖第2代会長は金の面は
自分で何とかしようとして、
大蔵商事など金貸しや信用金庫など
を随分とやったんです。その尻拭い
と言うか、酷な言い方をすれば
金貸しの手先をしていたのが
池田大作です。彼も当初は
好きでやっていたわけではないと
思うのですよ。しかし、彼には
才能があったようで、池田が
ここ金あるよ″という家には、
見た目は貧乏な家でも必ず金が
あった、ということを古参の幹部
から開きました。逆に門構えの
立派な家の前でここはどうだ?″
なんて聞いても、池田が
ここにはない″と言えば、
その通りだったそうです。」
先の池田氏の小学校時代の
同級生は、大蔵商事に入った頃の
池田氏をこう語る。
「昭和25年に池上でやった最初の
同窓会に現れた時だったな。あの時
のことは今でも忘れられない。昭和
17年卒業組は今昔(こんじゃく)会
という同窓会を開くんだけど、
その時、池田は遅刻してきた。
同窓会に顔を出したのは
後にも先にもその時だけだよ。
遅刻してきたのに、恩師に挨拶も
せずに、どっかりと席をおろして、
いきなり演説を始めたんだ。
大きな声で。みんな驚いたよ。
遅刻してきたのに、いきなり
ですからね。ひとしきり自分の話が
終わったら、初めておっ先生、
元気か″なんて片手をあげた。
田中角栄みたいなあれだよ。
目立たないだけのあの男が、
いつの間にかそういう尊大さを
身につけていたんだ。」
大蔵商事時代の彼が、水を得た魚の
ごとく活き活きとし、さらに周囲が
驚くほどの尊大さを身に着け始めた
のは注目に値する。
やがて戸田から信頼を得た池田氏は
本部の青年部を経て、参謀室長に
抜擢されることになる。池田氏は
のちに、大蔵商事時代について、
こんな発言を残している。
「大蔵商事では一番いやな仕事を
した。どうしてこんないやな仕事を
するのかと思った。鶴見で、全く
未開の所へ地盤を作りながら、
同時に学会員を起こしてきた。
私は何も無いところから闘った。
当時は戸田先生が世界一だと
言っても通用しない。
本当に苦戦の連続であった。」
「戸田先生は葉っぱを御札にする。
本当にする。そうしなければ
広宣流布は出来ない。必ず
そうする。広宣流布の為ならば
葉っぱを御札にしてみせる、という
戸田先生の狂信が今日の学会を
築いた。それだけに厳しかった。
学会はこの精神を忘れては
ならない。」
(いずれも68年2月10日の
『社長会』にて)
この高利貸し時代は、あらゆる面に
おいて、今の池田氏を作る基と
なったことは間違いない。
そして58年4月、肝臓と糖尿が
悪化して戸田が鬼籍に入った後、
池田氏は権力闘争に勝ち抜き、
60年5月、第3代創価学会会長に
上り詰めるのである。
池田氏はよほどこの大蔵商事の
高利貸し時代に触れられたくない
のか、先の『年譜』でも、
「50年(22歳)11月27日この年の
秋より戸田城聖を顧問として
営業を開始していた大蔵商事の
営業部長となる」と、
簡単な記述があるのみだ。
やはり、「消費者金融の営業部長」の
肩書は、「池田博士」にはあっては
ならないものなのだろう。
●怨念とコンプレックス
長い長い池田氏の人生を語るには
とても紙幅が足りないが、彼の
人生を振り返ると少年・青年期の
貧困や病気、そして学歴への
コンプレックスや怨念が権力を
手中にした途端、それまでの
鬱憤を晴らすかのように
一気に解き放たれたように
思えてならない。
会長就任の5年後、37歳の
池田会長にインタビューした
評論家・高瀬広居氏の
『人間革命をめざす池田大作
その思想と生き方』(65年)の
一節は興味深い。
「池田会長は、モダンな本部応接室
のアームチェアーにアグラをかき
直すと、煙草を一服し、静かに、
そして激しい語気で言った。
私は、日本の国主であり、
大統領であり、精神界の王者
であり、思想文化一切の指導者・
最高権力者である
同席の大幹部数人は深く肯き、
息を飲んだ。」
何年か前までは、拭い難い
コンプレックスの只中にいた青年が、
短期間にこれだけの言葉を吐くほど
変貌したことに驚くのは、筆者だけ
ではあるまい。そして同時に
この37歳という年齢で、既に
池田氏を諌める人物も居なくなった
のは、学会にとってだけで無く、
池田氏本人にとっても不幸なこと
だったに違いない。
池田氏、そしてその周囲は、
その後、池田神格化″のために、
滑稽なまでにあらゆる手を
講じるようになるのである。
元学会幹部の解説では、
「日蓮大聖人が修行したという
由緒ある千葉県の清澄寺という
お寺では、寺を初めて訪ねた
池田氏が、境内にある杉の大木を
なでながら久しぶりだな″と
呟くエピソードがあります。
池田先生は700年前の日蓮大聖人の
事を知っていらっしゃる。きっと
大聖人の生まれ変わりに違いない、
と会員に思わせるわけです。
しかし、その木は実際には
樹齢400年だったそうです。」
また、池田氏はよく会員の前で
ピアノを弾くが、これも鍵盤を叩く
だけで、実際には自動演奏の
ピアノだったり、後ろから
メロディーを流しているのだそうだ。
それでも女子部員たちは感激で、
涙、涙なのだという。
「池田が訪れる会場周辺の花を
咲かせるという古典的な演出も
あります。期日に合わせ、地元の
人が何週間も前からドライヤーで
花の蕾を温めるのです。多くの
会員が梯子を持ち出して延々と
その作業を行い、見事、満開の桜を
咲かせたこともあります。先生の
お陰で一夜にして桜が咲いた、
という訳です。池田は見事だ。
よくやったね″と満足気に言い、
それを開いて会員達はまた涙を
流すのです。魚など1匹もいない
ドブ池に事前に鯉を放流して
池田に餌を撒かせ、ここには魚は
いないのに、先生が餌付けすると
鯉まで現れてしまった″と会員達を
感激させた例もあります」(同)
冒頭にも触れた異常な勲章や
博士号のコレクターぶりといい、
池田氏がここまで自分を神格化する
根本は一体なんなのか。
前出の原島嵩氏によれば、
「やはり根底にあるのは池田の
コンプレックスでしょう。例えば、
彼の学歴は富士短大中退です。
しかし、20年近く経ってから、
卒論を桐村泰次(きりむらたいじ)
という教学部の幹部に
書かせてまで卒業しました。
幹部には東大卒や早慶卒なども
多いのですが、彼らを前にして
お前たち、馬鹿だろう″などと
言ってははい″と答えさせ、
悦に入っていましたね。最高学府を
出た人たちをひれ伏させることに
彼は喜びを感じる訳です。
そしてもう一つは、権力への
コンプレックスです。彼は57年の
参院補選(古参の創価学会員を擁立)
において選挙違反で逮捕(大阪事件
)
された訳ですが(自供により減刑)、
この時に権力の恐ろしさを学び、
復讐を誓い、それが今の行動に
つながっているのだと思います。」
こうして独裁者となった池田は、
折々にこんな発言を
残すようになる。
「今の政治家は、やれ勲章を貰う
とか、金を取るとか、また有名人は
利己主義に成って、自分の名だけ
売って、金儲けをするとか、
滅茶苦茶な世界であります。私ども
創価学会員は、位も要らない、
有名で無くともよい、大臣の地位も
要らない、また権力も要らない。」
(63年8月3日付、聖教新聞)
「勝つか負けるか。やられたら
やりかえせ。世間などなんだ。
私は恐れなど微塵もない。
勇者は私だ。(中略)
反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』
いいんだ。」
(埼玉指導89年3月12日)
「2001年5月3日、広宣流布の同志を
裏切った者の大罪を、厳然と天下に
公表したい。(略)宗門の悪侶、
学会の反逆者を書き連ね、その
罪科を、血涙をもって後世に
残したい。永久追放の証としたい。」
(94年9月2日付、聖教新聞)
「師である私が迫害を受けている。
仇を討て。言われたら言い返す。
打ち返す。切り返す。
叫ばなければ負けである。
戸田先生も、牧口先生の仇をとると
立ち上がった。私も戸田先生の仇
を取るために立った。私の仇を
討つのは、創価同窓の諸君だ。」
(96年11月3日
『創価同窓の集い』にて)
その言葉の激しさには、やはり
驚嘆させられる。創価学会が持つ、
敵対者への激しい憎悪や復讐心は、
彼の屈折した半生から出てきたもの
と思わざるをえないのだ。
●日本支配の欲望
「彼特有の他人や敵への異常な
攻撃性というのは、持って生まれた
性格の他に自身の極貧、病弱体質、
能力の凡庸さへのコンプレックス
からくる世間への怨念が
影響していると思います。」
というのは、ジャーナリストの
乙骨正生氏だ。
「池田氏は口癖のように
自分は戸田先生の復讐のために
立ち上がった″師である自分が
迫害された時は、自分の仇を
討ってくれ″と言いますが、これは
自分を認めようとしない世間への
強い恨みに満ちたものだと
思います。海外から何百という勲章
をもらおうと、池田氏をよく知る
日本では、静岡の富士宮市の
名誉市民以外、なんの称号も
もらえないのです。海外の大学
から名誉教授の肩書をもらい、
様々な勲章をもらって
悦に入っているのは、いまだに
そのコンプレックスを克服できて
いない証拠では無いでしょうか。」
宗教学者の
山崎龍明(やまざきたつあき)氏
(武蔵野大学教授)も、やはり
コンプレックスをキーワードに、
こう総括する。
「オウムの麻原もそうでしたが、
私もやはり池田氏を考える場合に
この言葉が第1に浮かびます。
大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴も
無い彼が、社会的に認知されている
人をコントロールできる快感を
覚えたのでは無いでしょうか。
彼らの共通点はエリートを支配する
ことに喜びを感じることです。
池田さんは実は非常に小心者で、
自信の無い人だと思います。
自信あるリーダーというのは、
相手を一方的に支配しようとは
しません。気が小さいからこそ、
怖いのです。しかし、問題はその
リーダーに率いられ、肥大化した
集団が信者どころか、日本全体を
支配しようとしていることです。
宗教、教団が持っている暴力性、
排他性、差別性というものは
物凄く強い。ヨーロッパの歴史を
見れば分ると思いますが、肥大化
したこういう集団を動かした時には
無限の力が働き、人間一人一人を
蹂躙していくことは歴史が証明
しています。排他、除外というもの
は、宗教によって美化されます。
普通の組織、政治とは違った、
宗教自身の持つ恐ろしさを
忘れてはなりません。」
日本人は、
この特異な人間性を持つ人物に
わが国の将来を託すのだろうか。
それは果して
国民の総意なのだろうか。
衆院で僅か34議席をとるだけの
政党と、その事実上のオーナー・
池田大作氏に国の政策を牛耳られる
ことを容認するとしたら、それは
民主主義の放棄に等しい行為
なのでは無いか。
●=●=●=●=●=●=●=●=●=●
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
・YouTube・PickUp動画再生〓≫
┏━━━━━━━━━━━━┓
┃音声&映像の自動進行情報┃
┠────────────┨
┃埋め込み動画にしています┃
┣━━━━━━━━━━━━┫
━━━━━━━━━━━━
┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻
┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳
━━━━━━━━━━━━
┣━━━━━━━━━━━━┫
┃音声&映像の自動進行情報┃
┠────────────┨
┃埋め込み動画にしています┃
┗━━━━━━━━━━━━┛

創価学会本部幹部は池田嫌い!?
SO★KAワイドショーch
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓