懐メロ創作歌詞11用
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●明瞭・明解引用記事〓≫
HIV感染症/AIDS(エイズ)概要・症状
遊び半分で感染してもしっかり
医療保険を使える不思議な病気
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●性感染症蔓延実態啓発記事〓≫
スキン(避妊具)装着厳守を貫いた
元ソープ嬢の警告「NS断固反対」
◎補足:風俗店(全般)と性感染症
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●性感染症蔓延実態啓発記事〓≫
元NS(ノースキン)ソープ嬢の
惨めで過酷な現役時代回顧録
◎補足:NS嬢を呪うカンジダ膣炎
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●性感染症蔓延実態啓発記事〓≫
梅毒への無知が生む性風俗感染拡大
ひとりの客から二人分の料金を搾取
するリスキー有料オプションの弊害
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●性感染症蔓延実態啓発記事〓≫
江戸の遊廓の遊女に蔓延した「梅毒」
死ぬ職業ゆえ人身売買で小娘を補充
時空の彼方まで梅毒タイムトラベル
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この国での梅毒の歴史について、
江戸時代に焦点を当てて
書いていきます。
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日本に梅毒が入り込んだのは、
室町時代の末期、西暦で言うと
1500年辺りです。よって日本での
梅毒の歴史は500年と言われます。
時期はだいたい、鉄砲の伝来と
同じ位です。漂流したポルトガル人
が種子島(たねがしま)に漂着した、
それで「鉄砲」が押収された、という
アレですが、明(みん・当時の中国)
まで来ていた梅毒が海を越えて
持ち込まれたのは貿易商か或いは
和寇(わこう・日本人の海賊)による
ものと言われています。
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その後織田信長が室町幕府を倒し、
いわゆる戦国時代を経て徳川家康が
天下を統一し江戸に幕府を開き、
・・・としている間に、不特定多数と
不純異性豪遊を楽しむ者達の間に
梅毒が浸透していって、いつしか
江戸の吉原の遊廓の遊女達の間に
梅毒が蔓延していきました。
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梅毒の感染経路は2つあります。
1つは体液感染です。梅毒の感染者
は膣分泌液(♀)や精液(♂)や唾液に
病原体である「梅毒トリポネーマ」
というコイル状の細菌を排出する
ので、それに粘膜が触れたり、それ
を舐めたり飲み込んだりして体内に
取り込んだ時に感染します。
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もう1つは患部に粘膜がじかに接触
することによる感染ですが、梅毒の
第@期(粘膜)と第A期(全身の皮膚)
に現れる患部は数日から半月の間に
消えて元の健康な状態に戻って
しまうので、逆に感染経路の割合と
しては低いです。明るい場所での
性行為であれば、見た目で病変が
確認できるならまぐわいの続行を
避けるのが普通です。しかし女性器
の膣前庭に硬いしこりが現れた場合
には、男が生で陰茎を挿入する前に
大陰唇をしっかり「くぱあ」と広げて
女性器の形状を念入りに確認しない
と、可視的な梅毒の病変さえ見逃す
可能性は充分にあるでしょう。
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それと同様に、明るい場所であれ、
♂か♀のどちらかの口腔内に梅毒の
病変があったとしたら、相手の口の
中にベロを入れて舐め合うディープ
キスによりベロで相手の口腔内の
患部を舐めれば唾液&接触でほぼ
確実に感染するでしょう。歯科医の
ように口腔内の様子を鏡付きのヘラ
で観察してからディープキスをする
人なんて皆無でしょうからね。
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上で述べた第@期の発現状態は、
感染後3週間以降に、梅毒で汚染
された体液や患部に直接触れた粘膜
(♀♂の性器や口腔)にコリコリした
しこり・盛り上がった硬いしこりが
出現します。患部が爛(ただ)れたり
することがあります。しかし、
数日から半月で退縮し寛解します。
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第A期の症状は感染後3ヵ月以降に
発現します。全身の皮膚にまだらに
薔薇(バラ)色の斑点が一気に出現
します。これも半月ほどで退縮し
寛解します。第@期も第A期も、
耐え難いほどの痛みや痒みが生じる
ことがありません。よって、
自分で何か他の病気だと誤診して
焦っているうちに病変が退縮して
寛解して、それで治ったと思って
ほっとするという、病原体にとって
思う壺の展開に誘われます。
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江戸時代の遊廓の遊女は、これらの
「潜伏期」に治ったと思い込み、かつ
それが「梅毒」の前編だという知識も
無く、感染しながら客と性行為を
繰り広げていました。それによって
起こるのは、男性客の側での梅毒の
大漁感染です。遊廓に通う客が梅毒
になるのは定番のことでした。
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梅毒の後編は、感染後3年以降の
第B期で、よりパワーアップした
症状で再燃します。体の表面の
思いがけない場所の皮膚と筋肉の
浅い部分が広い面積で爛(ただ)れ、
沸騰したような様相を呈します。
まるで梅干しをやぶったように。
つまり「梅毒」とは、この第B期を
指して名づけられたものなのです。
ぐちゃぐちゃになった皮膚&筋肉は
壊死し表面が陥没します。また、
全身の軟骨が侵され、特にしばしば
鼻骨が溶かされ鼻がひしゃげたり
そげ落ちたりします。こんな風に
化け物のような姿になってしまえば
遊女と言えども客を取れない、そう
考えるのが「今」と江戸時代との
大きなギャップです。
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まず今は、第A期で皮膚科医に
梅毒だと気づいてもらえるケースが
ほとんどです。第A期の薔薇疹が
現れても病院に行かない人など
ほとんどいません。
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そして「今」は、梅毒の特効薬である
抗生物質「ペニシリン」があります。
厳密に言うと、1940年頃に発明
されています。この薬によって、
梅毒の第B期の発現は、文明国では
押さえられるようになっています。
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その第B期は退縮せず、ひたすら
悪化の一途を辿り、それから
数年以内に全身の臓器と中枢神経を
侵され精神が錯乱し廃人となって
無様な生きざまをさらけ出しながら
死んでゆく訳ですが、ここで
大いなる疑問が沸き起こります。
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梅毒の第B期に突入した遊廓の遊女
は客を取れたのか?この謎には
答と思われる推論があります。
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旬を過ぎた遊女は遊廓を離れ、
夜の街角で「夜鷹(よだか)」として、
個人営業の売春をしていたという
記録があります。それが1つの推論
で、もう1つの対(つい)になる推論
考えるだけでもおぞましい状況
なのですが、それは何かと言うと、
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梅毒の第B期が発現した男性客が、
梅毒の第B期が発現した個人営業の
遊女(夜鷹)を買春(かいしゅん)して
いた。もはやそうだったとしか
思えない究極の泥沼の状況です。
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なぜなら、当時は不治の病だった
梅毒で死を宣告されていようとも
♂の性欲が絶える訳では無いから
です。いやむしろ、生命の危機が
間近に迫ると、♂の性欲というのは
逆に高まるものです。それに、既に
梅毒の第B期のグロい病変で体の
ところどころが化け物じみた姿に
なっている人間は、もう新たな
梅毒の感染に怖れる理由など全く
無いとも言えます。よって、外見上
明らかな梅毒患者どうしの性行為は
当事者2人以外には他人に迷惑が
全く及ばないものだと言えます。
その光景をライトアップして撮影し
エロビデオにしたら気持ち悪すぎて
身の毛がよだち吐き気を催すだろう
という現代的な設定が適用されない
限りにおいての話ですが。
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ペニシリン(1940年頃)以前の
梅毒の治療法はたった1つだけ
ありました。梅毒トリポネーマは
高熱に弱く、42度の高熱が続くと
死に絶えます。よって梅毒の感染者
をマラリアに感染させ、数日間に
渡り生死の淵をさ迷わせたあげく、
マラリアの特効薬である「キニーネ」
を投与するという方法なのですが、
それが試されたのは日本で言うと
昭和に入ってからのことです。
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梅毒は「今」とは違い、
戦国時代、江戸時代、明治・大正と
太平洋戦争の敗戦前までずっと
「不治の病」だったのです。
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⇒●画像引用元URL●⇒


この国だけでも500年に渡る
「梅毒」にまつわる歴史を辿る
タイム・トラベラーの気分を
味わって頂けているでしょうか?
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上で述べた第@期の発現状態は、
感染後3週間以降に、梅毒で汚染
された体液や患部に直接触れた粘膜
(♀♂の性器や口腔)にコリコリした
しこり・盛り上がった硬いしこりが
出現します。患部が爛(ただ)れたり
することがあります。しかし、
数日から半月で退縮し寛解します。
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第A期の症状は感染後3ヵ月以降に
発現します。全身の皮膚にまだらに
薔薇(バラ)色の斑点が一気に出現
します。これも半月ほどで退縮し
寛解します。第@期も第A期も、
耐え難いほどの痛みや痒みが生じる
ことがありません。よって、
自分で何か他の病気だと誤診して
焦っているうちに病変が退縮して
寛解して、それで治ったと思って
ほっとするという、病原体にとって
思う壺の展開に誘われます。
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・・・この第@期と第A期は、きっと
江戸時代は「梅毒」の「前編」だと
認識されていなかったのでしょう。
一過性の皮膚病だと考えられていた
のでしょうね。麻疹(はしか)や
水疱瘡(みずぼうそう)のようなもの
と考えられていたのでしょう。
麻疹も水疱瘡も病原体はウイルスで
梅毒の病原体は細菌なんですが。
梅毒の第A期の薔薇疹では熱は
出ないし、蕁麻疹のような痒みも
無いんですが。痛みも痒みも無く
すぐに退縮して寛解する皮膚病、
これが「性感染症」だという認識が
無かったんでしょうね。
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江戸時代でも、「蘭学」からの情報を
得ていたあの「杉田玄白」のような
医者は、違っていた。鎖国していた
日本も、鉄砲伝来から江戸幕府が
開くまで唯一日本にキリスト教
の宣教師を送り込んでこなかった
オランダとだけ、長崎の港に作った
人工島『出島(でじま)』で交易を
続け、西欧の医学書も翻訳されて
いた。要は、現代の日本の性風俗と
同じで、性病の発見・認知・国への
報告を行なう医者は梅毒について
熟知していても、家出して寮ありの
風俗店に飛び込んだような小娘は
性感染症についての知識を全く
持っていないし、店のスタッフも、
嬢に下手に性病の知識を授けたら
店のウリとなるような過激なプレイ
嬢にやらせることができなく
なるから敢えて知識を与えない。
(運任せで嬢達を傍観するスタッフ)
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江戸時代の遊廓においては、遊女は
現代のような求人に対し志願して
入ってきたという「募集」←「応募」の
関係では無かった。端的に言えば
「人身売買」という方式で小娘が
親から引き離されて遊廓に入って
いた。避妊具など存在しなかった
時代、産み過ぎて養いきれなく
なった親が娘を遊廓に預けた。その
取り引きの内容は、娘を預けた親に
「礼金」が支払われる。ただし、同時
質屋と同じ要領で、預けた娘に
身代金(みのしろきん)が掛けられ、
「この身代金を納めれば遊廓から娘
を取り戻せますよ」という約束に
変わる。かつ厄介なことに、娘自身
が禿(かむろ:見習いの小娘)を経て
「遊女」を処女から10年間勤めあげ
遊女の定年(27歳)を迎えてからも、
自分自身をその遊廓から出すために
自分に掛けられた身代金を自分で
払わなければならず、そこまで
稼げなかった嬢は自力では遊廓を
抜け出せず、加齢や梅毒の第B期で
ボロボロになり遊廓から放り出され
夜鷹(個人営業の売春婦)となること
で身代金は自然に踏み倒され自由の
身となる代わりに、梅毒の第C期で
廃人になるまで自分を安売りして、
既に梅毒にかかっている客の相手を
して食いつないでいたのだろう。
それは、梅毒の末期で死の宣告を
されている最下層の男女どうしの、
人生の最後を謳歌するはかない
共存関係だったのかもしれない。
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